東金の風景 Photo探索

東金の文化、郷土史などを紹介します。

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八鶴湖 <東金城址 <日吉神社祭礼<表谷鞨子舞<雄蛇ヶ池<徳川家康公ブロンズ像<田間神社大祭<高砂浦五郎<東金・長唄考 <東金と豪商・東金茂右衛門<木遣歌(きやりうた)<お鷹狩りの謎解き<東金蜜柑柑子<『驟雨』の舞台と東金<『驟雨』の舞台と東金(二)<消防団 出初式<大木茂八 <法光寺と閻魔王座像

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東金・オールディーズ

東金のオールディーズを知りましょう.文化の源に出会えるかもしれません

1.八鶴湖

東金駅西口から徒歩5分の街中にあり、池にはボートも浮かんでいます。
周囲には桜が植えられていて桜のシーズンには賑わいます。県立東金高校が池のそばにあり、池の湿地にはサギがえさになるものをつついています。

由来:文禄三年(1594)に本漸寺と最福寺の朱印地である水田90余町(約89万平方メートル)のかんがいと、東金市街の防火用水のために造られた人造湖で、当初は「谷(やつ)の池」とよばれる小池にすぎなかった。江戸時代に入り、東金一帯は、将軍の鷹場となり、動物の狩猟や捕獲が禁止された。このため、多くの水鳥がこの湖上で遊泳し、また周辺の山々の松や杉などの樹林が湖面に影を写し、実にすばらしい光景を呈していたという。

八鶴湖の名は、江戸末期・天保12年(1841)5月に詩人遠山雲如がこの地を訪れ、池の形が鶴に似ており、谷(やつ)は八鶴に通ずるところから、「八鶴湖」と名付けたという。また、雲如は、中国の西湖にちなみ、「小西湖」とも称している。

 背後に小高い山々が連なり市街地とは思えないしっとりとした風情がうかがえる。湖畔にはツツジ、花菖蒲、アジサイなど四季折々の花が咲き、湖面に美しいアクセントを添えている。桜の名所としても知られ、4月上旬になると夜桜見物の市民でにぎわう。また、ボート遊びや釣りも楽しめるとあって、休日には子ども連れで訪れる家族も多い。湖の周辺には七里法華の中心寺院だった最福寺をはじめ東金城跡、その城主酒井定隆の菩提寺となっている本漸寺などがある。
左絵は、
茂郷<東金風景>八鶴館蔵

   <<八鶴湖・小西湖  命名その時 >>郷土史研究家 JO1QOJに聞く

2.東金城址

東金高校の脇に細い道があります。入っていくとすぐに城址の碑が建っています。大正4年に建てられたものですが漢文でよく読めません。さらに道を入っていき、先に行くと道が分かれていますから右の方へ行って、城址までは階段がしっかりできています。息が少し弾むくらいになっててっぺんに着きました。狭いその頂上からは東金市内から太平洋まで見えるのではと思いましたが、樹木が邪魔しています。

古くは東金の山全体を、鴇ケ根(鴇ケ峯)と呼んでいたので、鴇ヶ根城とも呼ばれていましたが、酒井氏の時代から、東金城と呼ぶようになったようです。東金城は室町時代に千葉氏の支城として作られました。庚正年間(1450年代)に千葉氏一族にあらそいが起こり、房総各地で戦乱が続きました。

将軍足利義政は東常縁(とうのつねのり)に東国平定を命じました。東常縁は東金城を副将浜春利に守らせました。
その後は山口主膳が城を守っていました。東常縁は武将でありながら学問・文芸を好み、優れた歌人でもありました。
大永元年(1521)には、酒井定隆と隆敏が田開城から移ってきました。
その後、酒井氏は五代約七十年間にわたり、東金城にいてこの地を治めたのですが、天下統一を目指す豊臣秀吉による小田原北条氏攻めで、天正十八年(1590)に北条方を助けた東金酒井氏も滅ぼされてしまいました。

東金城は本漸寺の裏山の、城山とよばれる標高六十メートルほどの丘の上に築かれました。
地形は丘の南から西(台方)にかけては、丘陵地帯で急斜面になっており、東は切りたった崖になっています。かつては、前方を見おろせば九十九里平野が広がり、太東岬から刑部岬までが見渡せました。眼下には城西小学校が見えます。

城の大手門(表門)は上宿の火正神社の近くだったようです。城のからめて(裏手)は本漸寺で、本堂のおくにある酒井氏の供養塔の先を登っていくと、城山の頂上近くに三本杉と呼ばれる杉の大木がそびえていました。今では二本枯れてしまって一本だけですが、昔は九十九里浜を出漁した漁船が、漁を終えて帰ってくる時、沖から見えるので、方角を見定める目印にしていたそうです。

ここは物見台だった所です。本丸の中心部には赤松が生えていました。 城の広さは西側のさくらトンネル(台方)の上の尾根の深い堀切から、東は県立東金高等学校の東の尾根あたりまでとされています。
 本丸は東西五十メートルの五角形で、そこから一段低い西側には幅四十メートル、長さ百三十メートルの二の丸があり、本丸の南東にある小さな腰郭と空堀を隔てて、楼台状の郭があります。この四つの郭を半周する帯郭が巡らされていました,北側の本漸寺も郭でした。 
寺の南のくぽ地には城主の館があり、後に
東金御殿も建てられ、現在は県立東金高等学校となっています。

 当時山頂の郭は、物見やぐらや山小屋・兵糧小屋と見張りの兵がいるぐらいで、ふだんは城のふもとやハ鶴湖周辺に侍たちは住んでいたようです。
 ふもとへ下る道は、台方方面へは「一の谷」という険しい間道で、もう一つの道は尾根にそって下り、本漸寺の境内にでるようにつけられていました。

3.日吉神社祭礼 

は、神輿が山車・屋台を随え氏子区域の、九区を巡幸する豪華な神幸祭です。承応2(1653年)年に、東金ほか八ケ村の農業用水池、雄蛇ケ池 の水利権をめぐる紛争が、御神徳により解決したことに感謝し、氏子九区が報恩のため、寛文3年(1663年)6月15日(旧暦)に、初めて行い以後隔年行 われています。
慶長18年(1613年)に、徳川家康が御殿をこの地に築き、東金御殿と称し、後に家
康が社に参拝し武運長久を祈願しました。元和6年(1620年)、に家康巡狩のとき、代官の高室金兵衛をして社殿を再興、二代将軍秀忠の参拝が7回に及びました。
祭礼は、 7月第三土曜・日曜(隔年)山車、屋台9台が情緒豊かな東金ばやしを奏でながら、土曜は夕方から夜にかけて御輿と共に御旅所へ。日曜は終日曳き廻される.   岩崎区の山車 撮影は東金駅前 タカサキカメラさんです。 2002.7

★江戸時代、大名、旗本により行われたこの祭禮は、明治以降関係地区に継承され今日に至っています。
日吉神社の大神輿(シンヨ)は白丁(ハクチョウ)を着た禰宜(ネギ)45名により渡御(トギョ)され露払(ツユハライ)には東金型と称される独特な山車・屋台9台が列をなし能管・篠笛の音(ネ)心地良い東金囃子を囃したて9地区を一巡します。
郷土史研究家:JO1QOJ


日吉神社連合祭 フォトギャラリー>>  撮影:タカサキカメラ

4.表谷鞨子舞(おもてやつかっこまい)

悪魔払いと五穀豊穣を祈り毎年小野地区の六所神社の秋祭りに表谷鞨子連(4集落約100戸の氏子で構成される芸能集団)が奉納する伝統行事です。
祭りの朝は、当地の旧家である鶴岡家に参集し祭具や供え物を整え、庭先で鞨鼓舞を一差し踊った後、六所神社に行き、足袋、囃子道具等を祭壇にあげた後、3匹仕立ての鞨鼓舞が天然記念物の大杉がそびえる境内で舞を奉納する。
続いて、地域内の社寺及び各戸を 「横飛びの舞(よこっとび)」 を踊りながら巡る。
夕刻、再び鶴岡家まで戻って来ると、花納めと呼ばれる祝宴でお開きになる

5.雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)

国道126号線の雄蛇が池入り口のバス停から田んぼの中をのんびり歩いて、そこからまもなく雄蛇ヶ池の土手に着きます。上がってみると釣り客がいます。ほとんどが若者で、ルアーでつっている人が多く、土手から釣っている人、ボートから釣っている人総勢50人くらいでしょうか。釣りはほとんど動作がなく、たまにラインを投げるくらいでとても静かです。
別名「房総十和田湖」とも呼ばれていて、形が少し似ているからでしょうか。それとも秋には全面の紅葉が見られるのでしょうか。
池の周囲は4キロくらいで遊歩道に成っているので歩けます。

7月〜8月頃には反対側の養安寺堤防の方には、湖面一杯に蓮が群生しています

雄蛇ケ池展望台より by JI1BVB

歴史:雄蛇ガ池は、徳川氏の江戸開府間もない慶長九年(1604年)江戸幕府八百万石の天領となったこの地の代官嶋田以栢(1545〜1637)によって工事に着手し、十年の歳月と巨額の経費を投じて築造された本格的な農業用水池です。
工を起こしてからの彼の苦労は家屋の移転、農地の代替地等の補償が大きなもので、その苦労の跡が偲ばれます。規模は、水面25ヘクタール(約25町歩)、貯水量70万トン(現在堤塘改築後)で、この用水池のおかげで、田中村を初め、下郷九カ村(東金町・山口村・福俵村・田中村・大豆谷村・台方村・押堀村・川場村・堀上村)は旱魃から救われました。
特に嶋田以栢の真骨頂は、寄合い九カ村に公平且つ迅速に用水取水のための水路の整備と数々の約定の取決めにありました。旱魃(カンバツ)の時の水争いを未然に防止したことです。
水下では、その恩恵を謝し、池畔に一祠(ホコラ)をたて、嶋田以栢をまつり、水神として崇めた次第です。なお、隔年行われる東金日吉神社の連合祭典は、雄蛇ガ池への感謝のお祭りと伝えられています。

伝説:東金町史にもあるとおり、これを七廻りすれば大蛇が出るという。筆者の童心に植え付けられた話はそれに輪をかけている。「雄蛇が池を七廻り半すると、鬼と白い大蛇が出て来て取組み合いの喧嘩をし、勝った方に食べられる」というものです。
雄蛇に鴨の群棲していた時代や、堤塘の桜の花見で賑わっていた時代には雄蛇(おじゃ)と呼ぶ人はなく「おんじゃ」で通っていた。だから字に書けば鬼蛇だと思っていた。何故なら今の伝説と、それに堤の下を流れる小野川が山口方面と下田中方面に分かれる所に鬼ケ崎の名称があり、又ここの部落は蛇首(じゃこう)というのです。
つまり鬼と蛇の関連の名称が揃って存在しているし、鬼蛇は、音便で「おんじゃ」となる。 

6.徳川家康公ブロンズ像

前記、八鶴湖・御殿山のところでも、東金と家康がゆかりが深いと言われていた、その象徴でもあるブロンズ像。
家康公から三十石の寺領を受けていた「御朱印寺」でもあった八鶴湖畔にある名刹・「最福寺」に行くと本堂へ続く坂道の途中に当山第七世日善上人と、徳川家康公の対談の模様を、再現したブロンズ像があります。
家康公が鷹狩の際、休憩に使った「
東金御殿」(現県立東金高校敷地)で家康公と会談。
その八ヶ月後、「大阪冬の陣」慶長十九年十一月(一六一四)の直前にも、駿府城内で家康公に拝えつ。
しばし話し合いを行っていたことが「駿府記」 慶長十九年九月に「二十日、上総國東金西福寺日善上人御目見日蓮宗也」と出ている。

「台徳院実記」慶長十九年九月二十日にも「総州東金西福寺日善」駿府城にのぼりて拝謁す」とある。
また、「最福寺」は上総十ヶ寺の一つでもあります。

 このような歴史を後世に残そうと、現住職、第三七世山岡日俊上人が発願し、市内出身の日展会員、上野弘道氏(千葉大教授)により製作されたものです。家康公の御顔は、日光輪王寺に祭られている、徳川三代家光公が狩野探幽に書かせた「徳川家康霊夢像」を、輪王寺の御了解を得て写されたものです。

 

<家康公と日善上人>のブロンズ像の傍らには、徳川家康の重鎮として活躍されていた若き「板倉重昌公」がかしずいておられたと思います。と説明してくれたのは、このHPに寄稿頂いている飯高和夫氏でした。

氏は、去る年の火正神社例大祭で神輿渡御の禰宜頭を努めた時の挨拶で、その重責と歴史との狭間で、例大祭の前日の夢の中に、白馬にまたがった「板倉公」を見たと言う話をされたと聞きました。 「板倉公」の存在は、東金の歴史の上でも大変重要なことのようです。

<福島藩祖の板倉重昌の近親と東金> JO1QOJ 飯高和夫

7.田間神社大祭 ・ 神輿

仏教の神様である第六天を祀られている田間神社で10月初旬(旧暦8月15日)に、日吉神社祭礼と交互の隔年行われています。
また、神輿を担ぐ禰宜(ネギ)という役が代々同じ家に引き継がれているのが特徴です。祭りの最後は「お山」という急な神社の石段を登ります。

歴史:時は八代将軍吉宗の時代、享保十七年当時敬神の念にあつい仲通りの豪士、元酒井氏の五百石の家臣であった小安弾正忠氏が所用にて江戸へ参った折、浅草で神輿を買い受け、当時田間村の名主役を勤めていた新町の田辺外記(田辺家も元酒井の家臣)に引取りの手筈を頼むとの連絡をし、知らせを受けた当地では早速屈強の若者数十人を選び、江戸へ急行させ、昼夜兼行にて担ぐという荒業をやってのけ、第六天王様に無事奉納したとのことです。この人達か禰宜の祖先であり、それ以来禰宜は代々世襲しています。                              

また田開神社の祭事は、東金(新宿以南)と隔年に行なわれておりますが、これは、寛文十一年より東金、田間、二又を合せ、三千石の領主が同一人であったため、毎年の祭事では費用の面での問題か出るため隔年としたものと思われます。

 神輿が第六天王様に奉納された当時、砂押部落は菱沼村でしたが、その後分村し、田間と合併したために、砂押部落からは今でも禰宜は一名も出ておりません。

 昔の神輿の渡御は二日にわたり、即ち八月十三日に飾付けを行ない、十四日神社を出発し仲通りの小安家の庭内に入り、小安家に敬意を示したのち、峯下、田開新田、小井戸部落(元公平村松之郷で、昭和二十八年東金町と合併し、田間神社の祭事に参加するようになった)を通り、神輿はこれより柴田道(十文字川と並ぶ道)を下り、砂押春日神社に休憩し、今の砂押県道を上り峯下の御仮屋に滞在しました。

 この御仮屋で一夜を明し、翌十五日に出発した神輿は田中、仲通り、宮ノ下、白打の各部の社前で休止しながら新町に着き、これより神輿は新宿へと村境を越え、千葉銀行前にて引返し、菅原神社にて大休止をするのですが、神輿が村境を越え東金まで行った理由は、領主が同一人で、上宿の火正神社の神輿が砂押の降り口まで行ったことと同じと思われます。
菅原神社を夜の八時頃出発し、高張提灯や警固の方々の手提灯に守られ、道の両側には四、五間の間隔に立てられた提灯立の御神灯に火が入り十時頃には還御になりましたが、当時の田間神社の石段は伊豆の小松石を使っており段数が多く、幅四尺程度の石段でつかれ切った禰宜は一段一段づつ、登り切るには大変なことでした。なお、この当時の祭には、各部落ごとそれぞれの催し物があり、このような神輿の二日の渡御の祭事は、昭和の始め頃まで続き、そのうち小安家、新町の田辺家の庭内に神輿が入る事は不敬であると取止めとなり、昭和十年九月一日新町の更進金、会長戸村信氏ほか十九名は皇太子殿下御降誕の奉祝記念に子供神輿を(今回田間神社の神輿を修理した行徳の後藤神輿店で)当時三百五十円にて買受け、菅原神社に奉納しました。その後まもなく、満州事変から第二次世界大戦まで物資不足と経費節約のため休祭が続き、昭和三十四年、一日だけの渡御の祭りが行われました。それ以後、国道の交通事情のため、神輿の渡御は出来なく成りましたが、昭和四十六年東金バイパスの開通により、昭和四十八年度の祭事から神輿の渡御が再開されました。
 ------- 河口竹治郎氏 田間神社における祭事・神輿の由来記より  

仲通地区では、平成17年10月の大祭までに完成するよう手作り神輿の製作が進んでいました。
 手作り神輿の製作>> JS1QXM

8.高砂部屋の始祖 高砂浦五郎

平成15年1月場所後に横綱に昇進、実力第一人者として君臨している朝青龍の居る高砂部屋は、名跡の歴史は比較的新しいのですが、現在では屈指の名門部屋です。
その高砂の初代は、千葉県東金の出身、高砂浦五郎(山崎伊之助)でした。
最高位は前頭筆頭。平幕力士ながら明治維新後、旧弊にまみれた相撲界の革新を志し、相撲会所に反旗を翻して別団体を作り 一旦除名されたのですが復帰後は取締になってから、各種改革によって相撲を近代的な形に整えていきました。1代の風雲児とも言われ、門下から小錦・西ノ海の両横綱はじめ多数の幕内力士を育て、今日の高砂部屋の始祖です。

相撲界が実質的な意味で明治維新を迎えたのは高砂の起こした事件と改革によると言われています。また、改革者としての面ばかり語られることが多いのですが、実力も当時の三役級で(番付上は前頭筆頭が最高位)、なかなか強い力士だった様です。
事件:天保九(1839)年農家の3男として生まれ、十四歳の頃から磯千鳥の名で土地相撲で活躍していました。20歳のとき、巡業に来た江戸相撲の幕下鍬形(後の大関象ヶ鼻)に勝ち力士を志しました。
順調な出世で、明治2年11月場所高見山大五郎の名で入幕(当初は姫路藩の抱え力士であった)、新入幕の場所大関鬼面山には敗れたが前頭筆頭両國と引き分け、朝日嶽らに勝って6勝1敗2分の好成績を挙げました。
明治4年3月場所から高砂浦五郎として前頭筆頭を務め、場所ごとに実力を発揮し6年4月場所には、小結朝日嶽には敗れるも、大関綾瀬川と引き分けるなど7勝1敗1分という活躍を見せました。(「高砂の浦」は、世阿弥元清による現代でも結婚式に欠かせない謡曲「高砂」にある姫路を代表するめでたい地名で、姫路藩主より与えられたものです。)
こうしていよいよ三役を狙おうかというときに事件は起きたのです。
6年12月、高砂は時流に遅れた会所に我慢できなくなり、関脇小柳などにも相談して待遇改善などを会所に迫ると、会所は話を聞くどころか番付から墨で抹消される扱いを受けてしまいました。
その後高砂改正組を組織して愛知組や京都、大阪の力士も加えて自ら大関となって興行、巡業を続け8年11月には東京に戻って会所に対抗しました。しかし11年、警視庁によって「相撲取締規則」が発布され、東京では合同して興行しなければならなく成りました。
仲介するものがあって11年5月に和解が成立し、復帰してからは年寄として江戸時代以来の制度を改め、「東京角觝協会」を発足させ、年寄の定数を定め、協会体制を整備、力士への利益の分配制度を作り、番付編成の改革を行うなど、近代相撲をスタートさせました。横綱の西ノ海、小錦など弟子にも恵まれ、後には協会の独裁者となり、やがては専横をきわめ反感を買うことになってしまいました。
取口:身長170cm、体重98kgぐらい。右ハズ押し、残れば叩き込み、突き落としの変化を見せきびきびした敏捷な取り口。幕内成績は在位9場所(実質8場所)で通算 40勝17敗4分。勝率は7割を超えており、三役級の実力を持っていたが、年功の少ないためもあって筆頭どまり。引き分けが少なく、速攻型の力士だったと推察できる。

高砂部屋の歴史:2代目は明治11年入幕の関脇高見山。3代目は大正の名大関2代目朝潮太郎。4代目は戦中戦後の横綱前田山が継ぎ、勢力を保った。
5代目は、元横綱朝潮太郎が継いだ。昭和26年1月場所入幕、朝潮(朝汐)の4代目でした。5回の優勝を飾って37年1月場所限り引退、年寄朝潮から振分を襲名、一時振分部屋を経営するがやがて部屋をたたんで高砂部屋付きの親方となり、先代死後の46年8月に高砂を襲名しました。高見山、富士櫻はこの前後から昭和50年代まで幕内で活躍し、さらには大関として5代朝潮太郎、小錦、関脇水戸泉らが輩出しましたが、昭和63年10月に死去しました。

その跡6代目は、元小結富士錦(昭和34年1月場所入幕、平幕優勝の経験もある。43年11月場所限り引退、西岩から尾上を襲名していたが、先代没後に高砂を襲名した。)門下からは闘牙が幕内に進んだが、その闘牙が自動車事故の余波で平成13年3月場所、十両に陥落すると、初代高砂が明治11年に相撲会所と和解して以来幕内力士が絶えなかった高砂部屋から、ついに幕内力士が消えてしまった。しかし闘牙は1場所で幕内に復帰し、幕内不在を解消しました。
元富士錦の6代目が定年間近となり、平成14年2月、元大関朝潮太郎の若松親方が高砂を襲名、それまでの高砂部屋と若松部屋が合併した。彼は学生相撲の強豪から入門して昭和53年11月場所に入幕。朝潮(朝汐)の四股名としては5代目となり、大関を長く務めた。平成元年3月場所中引退、始め山響を襲名して高砂部屋付きの親方だったが、元房錦の若松親方が廃業するのに伴って2年3月に若松を襲名、若松部屋を継承した。彼が若松を継いでからは、朝乃若、朝乃翔の二人の幕内、十両朝乃濤、さらにモンゴル出身の関脇朝青龍が育っていた。
彼が部屋を継ぎ、新高砂体制となった14年3月場所は、関脇朝青龍を筆頭に、幕内に闘牙がおり、十両には朝乃若と泉州山が名を連ねた

 

9. 東金・長唄考(一)

―吉住こまじとその時代― 

                       JO1QOJ 飯高 和夫

隔年に一度、東金の日吉神社連合大祭で演奏される通称東金囃子は、江戸時代後期に流行した長唄を基調としたものであり、県下祭り囃子の中でも特異な存在である。しかし、その囃子成立に大きく関与したであろう長唄の師匠の墓石が、東金市・谷にある古刹・日蓮宗最福寺内、国井家墓域内にあることを知る人は少ない。

墓石、礎石部に横書きで長唄。長と唄の中間に門弟中と縦書きされ墓碑に戒名・音聲院妙帰 歿年・文久元年(一八六一)辛酉年十月二十四日そして長唄での名乗りはないが、武州足立郡本木村産国井胤司(夫)に嫁した浅草材木町・片柳重右エ門 長女・俗名せい(妻)の名が刻字されている。 

 「せい」の子孫、国井信雄氏によれば、平成十八年六月二十一日産経新聞・訃報『吉住小三郎・長唄・吉住流六代目・家元(社団法人)長唄協会副会長・・・・』の切り抜きを提示され、「せい」は「吉住こまじ」と称し、小さい時、我家には長唄用見台や独特な文字の唄本が多くあった。上宿のマスヤさんや新宿の清水屋さんは「こまじ」の最初の門弟であったらしい。・・・・とのことであった。 

 「こまじ」(?〜一八六一)が生きた時代、長唄唄方・吉住流を名乗った吉住小三郎は初代(一六九九〜一七五三)・二代(一七九九〜一八五四)・三代(一八三二〜一八八九)と続くが、三代目は「こまじ」が他界する一年前の襲名であるため、「こまじ」の師は年齢からして、二代小三郎となる。 

 二代小三郎の師匠は江戸中橋槇町に住し、初代芳村伊四郎・二代芳村伊十郎・二代坂田仙四郎・そして文政七年(一八二四)二代芳村伊三郎より三代芳村伊三郎(一七五四〜一八三三)を襲名した中村屋平蔵である。

 二代吉住小三郎自身は江戸四谷の小三郎と称され、初名を芳村五郎治。前名を坂田五郎治。芳村小八。伊三郎前名三代芳村伊十郎。花垣五郎三郎。初名大薩摩太夫名初代・源氏太夫の名跡を継承した天保・弘化年間(一八三〇〜一八四八)における三名人の一人である。

 そして、この二代吉住小三郎と共に、三代芳村伊三郎から直接指導を受けた兄弟弟子には、六歳年上に「遠山の金さん」こと芳村金四郎。一歳年下には『与話情浮名横櫛』のモデルとなった清名幸谷(現・大網白里町清名幸谷)出身の中村大吉こと初名・芳村伊千五郎がいた。

 伊千五郎は、市村座・河原崎座で立唄を務めるが他の名跡を継ぐことなく弘化三年(一八四六)十一月四代芳村伊三郎を襲名。しかし、半年後の弘化四年(一八四七)六月十六日四十八歳で他界している。 

 それでは「こまじ」と同様名人二代吉住小三郎から厳しく修行を強いられた門弟には、どんな人物がいたのであろうか。 

 一人は石川清之丞(一八三二〜一八八二)である。十七歳の折、その才能と美声を認められ、前年他界した中村大吉こと四代芳村伊三郎宅へ実子芳村遊喜と川合政助了解のもと養子に入り、初名芳村伊千三郎。四代芳村伊十郎。森田座立唄を経て「こまじ」が他界する二年前の安政六年(一八五九)五代芳村伊三郎を襲名した男性である。

 しかし、五代伊三郎は明治十五年(一八八二)十一月二十日「こまじ」が門弟を集め指導していた稽古場から数丁程の位置にある秋山嘉吉宅にて急逝する。 

 宗旨人別帖によれば秋山嘉吉は東金西福寺(現・最福寺)末寺下檀家に記録があり「こまじ」他界の文久元年(一八六一)時、十七歳。父母はいなく祖父との二人住まいであった。

 嘉吉は「こまじ」の門弟であったであろうが「こまじ」が他界したため嘉吉をはじめ門弟の多くは指導者を失い動揺する。

そこで、門弟の先行きを心配した夫・国井胤司は「こまじ」の弔問に訪れたであろう家元になったばかりの五代芳村伊三郎に門弟の引き受けを願い了解されたと考えられる。

そして、その時、門弟一同は報恩・感謝の意を込め「こまじ」供養のために墓石を建立し、その礎石部に門弟中と刻字したのではと思う。嘉吉は五代伊三郎より伊三吉を拝命。師が東金へ訪れる折は自宅を旅寓として開放。時代が江戸から明治に移り、嘉吉三十八歳の時、指導を待つ門弟達の眼の前で師が急逝したのであった。 

 もう一人は一年後の万延元年(一八六〇)三代吉住小三郎(一八三二―一八八九)を襲名した吉住小太郎。大薩摩太夫名二代源氏太夫である。同じ年の生まれである五代芳村伊三郎と三代吉住小三郎は互いに意識しあい、切磋琢磨し、結果、二人は明治初期を代表する名手と成る。

 「こまじ」は二人の同門流派の新・家元の台頭に、在りし日の師二代吉住小三郎の姿と重ね合わせ、遠く離れた東金から江戸での活躍ぶりを心から祝ったことであろう。 

 妻「せい」として長唄の師匠「こまじ」として才能を十分発揮出来た最良の街東金は、延享二年(一七四五)東金の豪商(日本に誇る桐の材木商)水野茂右衛門をモデルにした『唐金茂右衛門東鬘』により一般的には知られることになり、長唄「東金」。

又、東金の日吉神社連合大祭で曳き回される山車、屋台が姿を現した宝暦年間(一七五一〜一七六四)の九年(一七五九)「せい」の両親が住していた江戸浅草・本伊勢屋吉十郎・版元が『歌選集』に「東金」を載せたように謡に精通していた「こまじ」にとって特別な街であったに違いない。

夢を抱き、多くの門弟を育て上げた「こまじ」が夫胤司と共に懸命に生きた東金は、「こまじ」が他界した二十二年後の明治十六年(一八八三)、東金上宿の西方大門にあった小料理屋島屋付近から出火。火は強風に煽られ猛火となり、一夜のうちに上宿、岩崎、新宿まで焼土と化してしまう。

復興には数十年の時間が必要であったが、再び街角から長唄の音が聞こえ始め、「こまじ」や門弟達が伝えてくれた長唄の心が祭り囃子の中に生かされ、厳粛且つ、華やかで趣のある曲として今日迄永く受け継がれているのである。

10. 東金と豪商・東金茂右衛門

1938年出版「東金町史」の中では、唐金(水野)茂右衛門は、商都東金を象徴する江戸時代の豪商として、紹介されています。
上宿で酒と醤油の醸造業によって巨万の富を築いたとされ、房総の各地で豪奢な生活ぶりを謳った唄が歌われました。「唐金茂右衛門東髢」(あずまかずら)という芝居まで上演され、大評判をとったといわれています。

谷地区に下りる日吉神社参道入り口近くに、顕本法華宗鳳凰山本漸寺の大宮墓地が有ります。

 「桜をめでる道」として千葉県で指定されているところで、お寺から離れたその一角に10基以上の大きなお墓が綺麗になっていました。ちょうどそこで御住職である坪井日崇上人にお会いしたので、お話を聞いてみると・・・。

 江戸時代、紀伊国屋文左衛門と並び称された商人「水野茂右衛門」のお墓で、以前は家族でもこの所在が解らず荒れていたところ、ある機会に知らされて早速お墓を整備され、現在は東京にお住まいの事業も好転されたそうです。


 

豪商「唐金茂右衛門」についての一考察      JO1QOJ 飯高和夫

千葉県東部九十九里平野のほぼ中央部に位置する東金市上宿の一角に江戸時代全国に豪商として名を馳せた唐金茂右衛門という商人(あきんど)が居たという。
『東金町史』は姓水野東金町上宿の人。酒醤油 醸造業 天明年間日本国の分限帖に記され名箸る。一説には江戸猿楽町の芝居にて【唐金茂右衛門東鬘】とて侠客狂言を為さしめし其名広まりしと、又、一説には大阪より絹を買い占、紀州より蜜柑を買っては之を東海道五十三次駅を[丸に水]の旗印を押立て之を江戸に運送せしより其名挙がりし』と記載し、又、「東金市史」総集篇(五)は東金市大宮にある水野家四代「栄篤・栄震・栄陳・栄敦」の墓石墓碑を調査確認の上,江戸天明年間(1781−1788)唐金茂右衛門を名乗ったとすれば栄陳と推定している。

ただ文末に「ある個人の茂右衛門でなく各代の茂右衛門の事跡が合せ絵にされているのでは…又は、東金の名主をしたこともある大木太郎左御門のことでは…真偽のほどは分からないが茂右御門のはなやかなストーリーは水野家以外の大商人の残したエピソードが折り込まれていそうな感じがある。」として閉じている。

豪商としての唐金茂右御門は存在しなかったのであろうか。
単なるうわさ話であったのか大変気になるので関係諸史料を調査の上、順次考察してみよう。

水野家を調査するにあたり菩提寺である東金市谷地区にある顕本法華宗鳳凰山本漸寺を尋ね御住職である坪井日崇上人にお会いしご理解を賜った。
その結果、本漸寺の貴重な過去帖と、同寺院が水野家より御預かりしている御位牌を拝見させて頂くこととなり、謎であった水野家の概要が判明した。

  <以下 略 > この研究レポートは東金図書館で閲覧できます。飯高氏は浄瑠璃本の「唐金茂右衛門東鬘」(あずまかづら)を国会図書館で入取するなどして、それまでの水野門右衛門研究を大きく発展されました。 
東金町史、市史とは違う、水野家の商売が桐を扱う材木商であること、いろいろな伝説に彩られる「茂右衛門」の姿の実像とそれに係る浄瑠璃、木遣り歌からの検証などがレポートされて、他にも、東金と福島市との関係、浅草 浅草寺との係り等、大変興味深く書かれています。

 

11. 江戸木遣りの「東金」
木遣歌(きやりうた)は、江戸の中期ごろ鳶職の人たちの間で盛んに歌われていた唄で、大木などを運び出す掛声や音頭とりの歌が木遣歌の起源となったともいわれています。また、入宋して禅法をおさめた栄西禅師が、建仁2(1202)年に建仁寺を創建したとき、仕事をスムースに進めるため工事人夫に歌わせたのがはじまりだとする説もあります(『近代世事談』)。元来建築そのものが慶事であったことから、木遣歌もめでたい歌として歌われたようです。

「江戸木遣」の中の端物[東金] [かわり東金]、大間[東金]、高崎木遣保存会にも「端物」・中間に「東金」があり、各地に伝承されている木遣「東金」の謡い出しは何れも<東金の茂右衛門がー>で始まります。

 東金市田間地区在住の8代続くとび職 小川氏により「若鳶会」が結成され、木遣り「東金」の指導並びに後継者育成が図られ、祭礼や建前などのときに儀式の歌として広く歌われています。
 木遣歌を歌う場合は、音頭をとる木遣師と、受声をだす木遣師が交互に歌います。また、歌の数は、総数110曲とも120曲ともいわれています。

12. お鷹狩りの謎解きと日経・日善上人 JO1QOJ 飯高

徳川家康公に関する史料を紐解くと『放鷹』のニ文字が散見する。家康公は殊の外鷹狩りを好んだというが、このことからもそれは伺われる。同じく家康公にまつわる史料『駿府記』にも、慶長一八年(一六一三)十二月一三日の条には次の様な一文がある。

蒼鷹数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・・・」

鷹狩り事実、慶長十九年(一六一四)一月九日に家康公は、東金に来訪している。

 しかし、ここに興味がそそられることが一つある。それは、家康公の鷹狩りを記す多くの書物は『放鷹』と記しているにもかかわらず、東金でのそれを何故『蒼鷹』と記したのかということである。しかも「蒼鷹数多在之故」とはどんな意味なのだろうか。そのまま受け取れば、蒼、つまり青い鷹がたくさん存在するので、といった意味合いとなる。獲物である朱鷺が多く居ると言うのであれば合点が行くが、鷹が多いとはいかなる意味であろう。どうも納得しがたい。ふと『蒼鷹』という語には、何か秘められた意味があるのではないかと思い至った。そこで文献を開き、調べてみることにした。その結果思わぬ事を知ることとなった。

実は『蒼鷹』とは隠語で僧侶の意味があるという。では前述の文中の『蒼鷹』に『僧侶』の語を当てはめて見ると・・・。

 「僧侶数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・」ということになる。

 僧侶ならば数多存しても可笑しくはない。実際当時の東金周辺には数多くの寺があり、中には家康公を敵視する僧侶もあったりした。そんなことから家康公が、あるいは家康の家臣団が寺社の情勢を探る目的で東金に来訪したと考えれば、隠語を使って記した理由も納得できる。

 では東金には、一体どんな宗教事情があったのだろう。隠語を使ってまで探らねばならなかったその事情を今少し見てみよう。

 家康公の御代から遡ること約百年。戦国の世の幕開けの頃、上総の国東金や土気付近は、酒井清伝こと酒井定隆が、京都妙満寺心了院日泰との約定により、支配下の地の寺を法華宗に改宗したといういきさつがある。その結果、同じ宗派の寺寺に大きな影響力を持つ法華集団が成立した。この集団が『七里法華』である。

 さて慶長の御代、この派の代表格に常楽院日経 (一五六〇〜一六二〇)がいた。日経は中野本城寺や土気善正寺(後、善勝寺と改める)の住職を歴任し、大網白里町に方墳寺を建立し、京都本山妙満寺の二七世であった。

 日経は豊臣秀頼に頼まれ、家康を調伏するとし本尊を駿河に送り(『近世日什門流概説ー信行論と殉教史を中心にー』)家康を日本無双の大強盗、国主大理不尽の闇君と罵る(『日什と弟子達ー顕本法華殉教史』)そのため同書によれば家康公が信仰する浄土宗と法論を戦わせることとなった。

 宗論の場となった江戸新城に臨席したのは徳川家康公を始めとし秀忠、忠輝、浅野長政、上杉景勝、蒲生秀行等の老中、また浄土宗の江戸増上寺を長とした新知恩寺幡随意、鎌倉光明寺及悒、鵠巣勝願寺不残の賜紫長老等であった。日経の宗論相手として出席したのは浄土宗の英長寺廓山で、廓山は小田原大蓮寺了的を伴って臨んだ。しかし前日日経は暴漢に襲われるという事件(慶長法難)に会い、重傷を押しての参加であった。そのため宗論の場では一言も発言できず、家康からは厳しい怒りを受けることとなり、京へ護送された。やがて日経は慶長一四年(一六〇九)、京都六条河原で弟子五人と共に耳鼻削ぎの刑に処せられ妙満寺から追放された。

 日経の後、本山二八世に就任したのが東金西福寺(後、最福寺と改められる)七世の蓮成院日善 (?〜一六一七)であった。

 蓮成院日善は慶長一九年(一六一四)一月九日、突如東金に来訪した家康公に拝謁を許された。現在東金八鶴湖畔にある古刹最福寺の境内には、家康公と日善上人が共に座して八鶴湖を眺望する構図のブロンズ像が建立されているが、これは現最福寺住職がこの歴史的事実を記念し、千葉大教育学部教授の上野氏に依頼して制作したものである。

 同一九年九月二十日、日善上人は家康公より駿府城に召された。文献によるとそれは雨が強く降り続く中での登城であった。日善上人が家康公に拝謁した日は、大阪冬の陣の前夜で、想像するに、京都・大坂方面や上総七里法華の関係寺院、及びその檀家等の動向について問うたのではあるまいか。これに対し上人がどう答えたのであろうか。

 翌日は小春日和。駿府城を辞して日善が何処に向かったかは記されていない。ことによると京都妙満寺ではなかったろうか。 

*******文芸誌 ホワイトレター 六号 より

13.徳川家康公お手植えの東金蜜柑柑子 JO1QOJ 飯高

東金市は千葉県北東部にある九十九里平野の中央部に位置し、同市・谷地区の古刹、顕本法華宗(江戸時代・京都妙満寺派と称す)鳳凰山本漸寺境内には、「徳川家康公お手植えの蜜柑」と伝承される老樹が存在し、明治30年代後半であろうか、ガラス板写真に撮られたかっての姿は、四方に枝を伸ばした高さ十尺以上ある老樹であったが、現在では、その孫と称されている同寺内の若樹が季節になると多くの実を付け散策に訪れる人々の目を楽しませている。
この蜜柑は『東金町史』によれば[慶長19年(1614)家康初度の巡遊の時、之を記念すべく三州白輪村より柑橘の苗を取り寄せ、之を御殿地内に植る。是、東金蜜柑の初めなり。]と記述されている東金の名物の一つである。
蜜柑柚子三州白輪村とは何処であろうか。そして御殿地内の何処に植えたのだろうか等、疑問を生じたので考察してみよう。
始めに、白輪(シラワ)村であるが、家康公に関係する三河国であった愛知県遠江国の静岡県を調査してみると意外にも白輪村という村名はなく、地元の人々も全く聞いたことがないとの返事であった。しかし、その代わりに東金ではシラワと称する白輪ではなく、シロワと称する白羽村の存在を知らされた。
『角川日本地名大辞典・静岡県』によれぱ白羽の名は古く万葉集にも見られ、歌に詠まれたその場所は現在の浜松市大字白羽町、磐田郡竜洋町大字白羽、榛原郡御前崎町大字白羽であろうと推測されているとの事。
浜松市の項には「徳川家康が元亀元年(1570)が曳馬古城を浜松城と改めて,三河岡崎城から移り天正6年(1578)2月迄築城完成。天正14年(1586)12月駿府城へ移る迄17年間在城。元和7年(1621)の白羽村の年貢は本田3割6分、新田3割。
『遠淡海地志』によれば戸数100、名産に柑子がある。柑子は藩主べの献上品であった。」とあり、竜洋町の項も「元亀年間武田氏に敗れた植川家康が白羽明神社の西北の森に逃れたと伝える権現森がある。」とあった。そして、御前崎町の項では「俗称白羽さま。徳川氏の崇敬をうけ、慶長8年(1603)9月19日付徳川家康社領寄附朱印状によって105石を安堵され以後歴代将軍も社領を安堵。」と、いずれも白羽と植川家康との関係を記述していた。白輪村は白羽村で良いのであろうか。 
調査中、お手植えの蜜柑は東金の他に、実は徳川家康が在城した駿府城内にもあり、現在、静岡県天然記念物に指定されているとの事。 静岡県教育委員会の説明文によれば、蜜柑め種類は和歌山県より駿府城の徳川家康に献上された鉢植えの蜜柑を、天守閣下の本丸に移植したものと伝え、当地の方言でホンミカンと称する紀州蜜柑の一種類であると記述されていた。
次に、『文化武鑑?大名編』、及び『江戸幕府大名武鑑編年集成』には江戸時代、日本各地の大名・藩主たちが参勤交代時等に将軍家に献上した貴重な品々を年度ごとに詳細に記録しているが、明和2年(1765)から慶応4年・明治元年(1868)までは恒例の献上品とは異なる別欄を設け、その都度、献上された各地の特産品を特に[時献上]として記載していた。
そこで、この[時献上]の中から柑橘類に限定して細見してみると、思いのほか多くの大名・藩がその折々に、地元蜜柑を献上していた。その中で、『 「板倉」本国三河、板倉内膳正勝長御嫡、亥三郎勝俊、 寒中東金蜜柑柑子』 とあり、板倉家は「東金蜜柑柑子」を将軍家に献上していたのである。
蜜柑柚子2板倉家とは、『寛政重修諸家譜』・『板倉重昌・重矩両公常行記』・『久能山叢書』を参考にすると、徳川家康の近習出頭人として慶長19年(1 6 1 4)1月9日徳川家康と共に東金に来訪した板倉重昌を初代とし、2代・板倉重矩は京都所司代,老中職を勤める。家康・秀忠・家光3代が関係した東金御殿を拝領した近親の近江局(春日局後、大奥を取り締まった局)他界1年後の、寛文11年(1671)重矩は東金を賜り、御殿の一部を焼却した後、現・大網白里町小西に東金御殿を移築する。東金・田間・二俣(又)(3000石)は、この年より明治まで板倉家の知行地となり、その後、15代続く大名家であった。
尚、初代板倉重昌の兄・重宗から備中松山・板倉家と上野安中・板倉家。2代板倉重矩から備中庭瀬・板倉家と陸奥福島・板倉家が分家した事を付け加えておこう。 
      ******  徳川家康公お手植えの東金蜜柑柑子とその周辺事項についての一考察 飯高和夫   より抜粋 

写真の蜜柑はQOJの調査結果では、本漸寺に現在残っている「蜜柑」は、江戸時代のものと種が違い、その当時のものと同じ種の蜜柑を発見したのが去年の事で、あいにく時期違いで、足掛け2年の取材に同行しました。
丁度実入りが良く、一つ食べてみましたが、皮は薄くて、味はさっぱりした上品な甘味があり、想像していたものと違い、家康に献上したもの・・に相応しいものでした。2009.11

14.国木田独歩作品 『驟雨』 ゆうだち の舞台と東金について一考察
  JO1QOJ 飯高

武蔵野明治三十三年(1900)[萬朝報]に第百六十回懸賞小説・一等入選作『驟雨』が発表された。作者は二十二歳の国木田独歩(1871〜1908)である。
明治二十六年(1893)五月二日、独歩自身が東京から銚子へ向う途中、千葉に宿泊。
五月四日、徒歩にて東金を訪れ、翌五日東金を離れるが、この僅か一日の何気無く見過ごしてしまう瞬間を、独特な感性で数枚の原稿用紙にまとめた作品が『驟雨』である。そこで今回は、謎である『驟雨』の舞台と、文中に書かれている内容を検証しながら、忘れかけている百年余前の懐かしい東金を少し垣間見る事にしよう。
『驟雨』によれば、独歩は千葉を出発。昼二時近く東金に到着。そして東金の印象について【一筋の中程に来れば、かなり綺麗な商店軒を並べ・:】と美辞麗句で表現しているが、当時はどうであったであろうか。
東金は、徳川家康公来訪以来、東金御殿を拝領した大奥・近江局の影響、寛文十一年(1671)から明治まで、奥州(福島藩)板倉家の知行地となる。商人では桐材で富を得た上宿の水野茂右衛門こと東金茂右衛門が活躍するなどして大いに繁栄した町であったが、明治十六年(一八八三)十二月十八日の深夜、上宿大門(ダイモン)小料理屋[嶋屋]付近から出火した炎が、強風に煽られ、瞬く間に街の大半を灰塵と化してしまったのである。
世に言われた【東金の大火】である。しかし、十年の歳月は、東金を見事に復活させ、恐らく独歩が目にしてきた街道沿いの街とは明らかに異なる新築の商店が多数立ち並ぶ町に観えたためであろう。と想像する。
「草鞍喰いの痛み堪え難く…」早速、宿探しをした独歩は、急ぐ旅では無しと、町はずれの旅人宿の二階座敷で二時から五時迄うたた寝をしてしまう。目を覚ますと【欄干から・:外面を除けば・:此場末は苔白き…真向いは菓子屋。東京パンと障子の薄墨・:左が鍛冶屋。
右が紙屋。】【暫時向いの家並みさえ見かねる程…西の天際から雲切れ・:向の鍛冶屋の鉄砧勇ましく火花を散らす・:】と、二階から眺めた周辺の場景を詳細に記述しているが、問題は、「町はずれの旅人宿・:」の名前と場所である。いったい何処であったのだろうか。調査をすると、上宿の旅館【玉川屋一と小料理屋【泉屋一の二説が浮かび挙がった。
?【玉川屋一とは、千葉(国道・旧126号線)から東金に入り緩やかに左方向に曲がる辺り、国道・旧128線とTの字で交わる場所にある「ゲタモ」の北側隣りにあった旅館である。「玉川屋」右側の店舗は、日本髪杭き油「松がね香」を自家製造販売した松坂屋油店であるが、独歩が来訪したこの年、二代目社長・早野政太郎氏は、米国スタンダード石油代理店の権利を取得、経営を始めている。
      --------- 中略 ----------
このように【玉川屋】並びに【泉屋】説を作品に当てはめてみたが、それぞれに無理があり不十分であった。そこで改めて現地再取材を開始したところ、前述の二説とは異なる二階建て建物で、しかも独歩が『驟雨』に記述した内容を満たす旅人宿らしき建物の存在を発見、確認する事が出来た。その建物の名は[東屋(ヒガシヤ)」と称した。
この[東屋]は、東金の新宿にある五十瀬神社(国道・旧126号線沿い)入りロの木製・鳥居左側付近に店舗を構えていた足袋・洋品・仕立物商[東屋(ヒガシヤ)本店」と隣家の [東屋(ヒガシヤ)分店】を経営した東條加三郎とは近い関係であろうが詳しく知る人はいない。
現在、[東屋]を確認するためには、東金町長・小倉文彦。助役・小川正義。内田實。高橋源太郎。古川傅七(東金銀行取締役)。遠山十郎(萬新舎・天眞正神刀流門弟千余人・成川正義の師)。滝山福三郎等により完成した『千葉縣東金町鳥瞰図』昭和二年(1927)〈松山天山・写生〉に頼るしか方法はない。鳥瞰図を開くと、左下、豊海県道に対して西向きに門柱がある[泉屋]の右側隣りに、南を向く一軒の二階建ての建物が描かれている。それが[東屋]の姿である。上部には「東屋」と名が記され、細見すると【東屋】は[泉屋]の庭園部より少し南側の路地方向にせり出すようにして建てられているため、欄干にもたれ、辺りを見渡すには最適な場所である。
[東屋]専用入りロの門柱は、建物と同様に南方向を向き、建物の右側には木も観える。
【東屋】の前にある路地を右方向へ歩くと、隣家は小川種吉(東金銀行取締役・東金商業組合理事長)宅の裏門である。小川家の裏門前は子供達が遊べる同家所有の広い石置き場が在り、【…痩狗(ヤセイヌ) 一匹走り 行く…」とあるように、付近に住む野良犬が独歩の前に姿を現したのかも知れない。そして、次が、漢方医でも知られていた[中村(進)医院一裏門。老舗の【岡渾菓子卸問屋】へと続く。以前、卸問屋を経営されていた岡渾氏へ取材した折「飴を製造する時、高圧で蒸しますが、弁を外すと笛を吹くような高い音がします・:」と、『驟雨』の一場面を構成する【飴売りの笛は高く響く、…】にも似た、とても興味ある体験話を伺う事が出来た。
もし、独歩が、この【東屋】の二階から、眠い眼を擦りながら眺めたとするならば『驟雨』の舞台は眼下、僅か〇・六丁程の範囲となる。そして、『驟雨』が新聞に発表されるや、多くの読者達は、この舞台に訪れ、作品の中の独歩と対話しながら、想いを馳せた事であろう。
次回は、別史料から見た『驟雨』について検証したい。

15.国木田独歩作品『驟雨』の舞台と東金についての一考察(二)

JO1QOJ 飯高

『定本・国木田独歩全集』には[明治二十六年(1893)五月二十七日「夜は先日作りかけの『東金市(イチ)の旅客』を作る。夜既に深し。」とあるが、後年この作品を『驟雨』とし応募する。結果は、明治三十三年(1900)二月二十日(火曜日)萬(ヨロズ)朝報・二千二百九十四号(四)に。「こたびの応募原稿は、近頃に稀なる多数なりき、志かもわが心(選評者松葉生)を得たるは鞠水(独歩)の『驟雨』…さてこそ 選みて第一等(十円)には推し・・・と推挙され、東金の町名は、文学上でも多くの読者に知られる事になる。
独歩が生家銚子に向けて旅発つ切掛けは、「明治二十六年(1893)三月二十三日…植村正久の[路得記]を聴き、路得の母を懐ふて、吾が母を 懐うの情に堪へず、黙然 涙を呑む・・吾が母の故郷・吾が生地 銚子に旅行の念動く」。又、同年四月二十八日と解釈出来る「引頭氏の宅にて千葉の人、西村某と語り、大に千葉の様子を知り遊意 愈々強まる」とあるように、独歩の旅心を大きく膨らませた要因である事に間違いはない。
独歩は、意志を固め、数日後には草鞋を履き、「急ぐ旅ではなし…」と千葉から北総への街道を避け、千葉から右折して上総(カズサ)東金を経由する通称・東金道を進み、銚子へ向かったのである。
そして、五月四日(木曜日)商人達で賑わう定例市日の東金に到着する。独歩は履き慣れない草鞋の痛みと疲れのためであろうか、街外れにある旅人宿の二階に上がり込み、ついうたた寝をしてしまう。と『驟雨』に記述されている。馴染みのない初めての東金で、もし一夜の宿を尋ねれば、行き交う多くの人々は口々に【玉川屋旅館】【旅館岡本】【八鶴館】等の名を挙げたであろうが、何故か上宿の『東屋』という宿であった。
『東屋』は、旅人が安易に素泊まり出来る宿であったのであろうか。或いは、何か別の理由で宿泊する事になったのであろうか。気になるところである。
調査をしてみると、『東屋』の主人・東條氏は熱心な法華宗の信者であったとの事。菩提寺は八鶴湖畔の古刹・最福寺(顕本法華宗・現単立)。同寺域内の墓石裏面に、東條家三世の戒名を確認する。そして、以前墓守をされておられた方に東條家の本籍を尋ねると「江戸の市ケ谷本丁です。」 との返事であった。
「江戸・安政版」並びに、「嘉永版」の『江戸切絵図』にて市ケ谷本丁付近を細見してみると、寛文十一年(1671)から約二百年余、東金(上宿・谷・岩崎・新宿・田間・二又)を知行した奥州福島藩・板倉内膳正の屋敷(現・法政大学)が地図の左下にあり、すぐ隣接地には偶然にも東條の名を称する旗本が存在する。そして、江戸城・四ツ谷御門近くの麹町では浄土宗「心法寺」を確認する事が出来た。
浄土宗「心法寺」とは、江戸時代、江戸・芝・露月町に屋敷を構え、東金の武射田を知行した千五百石取りの旗本・植村家歴代の菩提寺であり、明治二十四年(1891)一月 独歩に洗礼を与えた一致教会の牧師・植村正久父方の寺院である。
植村正久は『植村全集』(植村全集刊行会)を参考にすれば、旗本・植村祷十郎を父に、母・テイの長男・道太郎(後・正久)として、母の実家、東金・武射田の医師・中村家にて安政四年(1857)十二月一日 誕生する。しかし、幕府の大政奉還後は、植村家は禄を失い生活は困窮。幼い正久も家計を助けるため養豚、薪、炭の買い付け等で諸々努力したが上手く行かず数年後、武射田を離れる。その後、横浜で英語を学んだ正久は、信仰を基督教に改め、番町一致教会の設立や、明治学院教授として多方面にて活躍。明治四十三年 (1910)及び、大正元年(1912)には、牧師・植村正久として東金に招聘され、懐かしい故郷の町上宿・中田道之助宅にて講演を行っているのである。尚、植村正久から洗礼を受けた文学者には国木田独歩の他に、正宗白鳥や島崎藤村等の名前を挙げる事が出来る。
そこで、文学者としての独歩ではなく、一致教会で牧師・植村正久から基督教を受洗した一人の青年として考えて見ると『驟雨』の「・・・急ぐ旅では無し泊まれ・・・東金も一筋街の中程に来れば・・・」という文章の背景には、独歩が東金に着いてから宿の二階でうたた寝をするまでの僅かな時間、東金において別の行動があったのではないだろうか。何故ならば、独歩が東金経由で一番関心を抱いたのは、他の町並と異なる綺麗な商店街の姿ではなく、(東金)町の中程に完成された。と噂に聴いた真新しい教会堂(上総東金福音協会改め南総福音協会)であったのではと思えるからである。
東京専門学校(早稲田大学の前身)の学生、十九歳(数え年)の独歩は、明治二十二年(1889)頃より東京麹町・一番町一致教会へ通い始め、二年後、同教会の牧師・植村正久から明治二十四年(1891) 一月四日洗礼を受けでいる。
※ 植村正久設立の一致教会堂は、東金教会堂より六年以前の明治二十年(1887)三月の完成。
洗礼を受けた独歩は、この時『図説大隈重信』(早稲田大学出版部)によれば、東京専門学校・政治科・英語政治科を中退している身であり、度々一致教会堂に訪れては牧師・植村正久の説教を拝聴する日々であったが、その折、牧師の出生地は千葉県の東金である事。そして、その東金において新たな教会堂が建設された。との情報を耳にしたのかもしれない。
そこで、独歩は、一致教会の伝道者として公私共多忙な日々を送る牧師・植村正久の代わりに、もし、自分が生家銚子へ行く時は、是非東金を訪れ、その新しい東金教会堂の姿を牧師に報告したい。と心に誓ったに違いない。
東金教会東金教会堂については『東金教会百年のあゆみ』(日本基督教団東金教会・非売品)より抜粋すると。
「・・・中田道之助より持地三百坪の貸与申し出であり、明治二十五年(1892)十月会堂建築の着手…翌年の明治二十六年(1893)初めに完成…献堂式は二月二十六日に挙行…フェゲライン(日本福音協会・第二代総理)…の記述には、新しい礼拝堂を献げたので…町の人々には一つの事件であった。二百名以上の人が午後及び夜の集会に出席…堂内立錐の余地なく堂外一時は人の山を為せり…場所は八鶴湖畔の高台で、しかも大通りに面した地…最も優れた位置・・・」とあり、現在も当時と同じ場所にある市内(国道・旧126号)上宿の日本基督教団・東金教会並びに、併設のときがね幼稚園である。独歩は、東金の町へ入るとそのまま、町の中程まで足をのばし、教会堂土地所有者である、上宿の中田家正門玄関口へ通じる私道(現・通称教会通り)を進み、名勝地・八鶴湖手前右側に真新しい教会堂を確認。胸に十字を切り、両手を合わせたことであろう。やがて、教会堂上部に耀く十字架を見詰め、膝まずいて祈る若き独歩の姿を、中田家当主である道之助・ひき夫婦や、教会に出入りする老若男女の信者達が優しく話し掛けてきたであろうが、その折は、「東京の番町一致教会の信者で国木田と申します。」と返事をしたかもしれない。
そして、諸々話を伺う内に、実は、明治二十二年(1889) 一致教会より転入した市川為四郎が、この東金(福音)教会の初代の牧師です。との説明を受けた時は、独歩もさすがに驚きを隠せなかったかも知れない。
やがて居合わせた信者の人に、今晩宿泊出来る宿を訪ねると、教会堂前の大通りから近い一本南側の路地角にある旅人宿『東屋』を紹介され、恐らくその宿まで案内を受けた事であろう。同行した信者の口添えを受けた宿側では、一見の旅人独歩が、主人・東條の本籍地である東京の市ケ谷から来た。と聴くや、快く承諾。早々に二階へ案内したのではないだろうか。
尚、その夜、同宿二階にて偶然相部屋と成った青年に対して「その夜は湿やかに語り…今更ら彼が昨夜の告白(コンフェツション)を思い出し冷やかなる涙頬をつたう・・」との文章も、悩みを抱え、迷える青年に対して単なる気休めの語らいでなく、基督教信者である独歩として洗礼的な説法であったと思えてならない。
翌朝、独歩は馬車に揺られ東金を発つが、半里程過ぎた辺り、右手方向直線に伸びる砂押県道に差しかかった折は、牧師・植村正久母方一族の菩提寺・武射田の多宝山・妙本寺(顕本法華宗)の森を拝し、一路潮風が懐かしい生家銚子へ向うのであった。

※ 日本基督教団・・・日本最大のプロテスタント合同教会。
※ 日本基督教会・・・日本基督教団を離脱した教派。
※ 日本一致基督教会は日本基督教会と改称。

『日本大百科全書』(小学館)

16.消防団 出初式

東金出初式

東金市消防団では、毎年1月の始まりの行事として、 出初式が行われています。例年、東金中学校に於いて表彰の伝達や観閲、器具点検、ポンプ操法、中隊訓練等の式典が開催されますが、恒例行事として他の消防団にはない、消防団のポンプ車輌が30台集結しての一斉放水試験では、八鶴湖畔にたくさんの見物人のいるなかで、湖上に大きな虹を描く様は、一年の初めを彩るにふさわしい行事となっています。

17.東金市台方 羽黒山妙福寺で発見された宮大工 大木茂八の棟札についての一考察 @ 飯高 和夫  JO1QOJ

先年東金市台方地区にある古刹 顕本法華宗 羽黒山妙福寺で修復工事を行う。との情報を耳にした。
妙福寺は、千葉方面から銚子へ向かう旧国道126号線を東金駅方面に向かうと、緩やかに左に折れる少し手前に参道入口を示す羽黒山・妙福寺の案内坂と年代を感じる石塔が目に入る。
『東金町史』によれば妙福寺は、「文化(1804-1818)の末年火災に被り、堂塔一切烏有に帰す。文政年間(1818-1830)堅祐師(西福寺日堅師の法弟)の時代、檀徒の協力により本堂,庫裡、再築する。大正11年(1922) 金坂乾受時代 諸堂宇大営善を加う。」とあり、今回修復の本堂は江戸文化年間の火災以後に建立されたものと判断出来る。

この地区の火災に関しては『千葉県の地名』(平凡社・発行)によれば、文化三年(1806) 「日蓮宗・妙福寺から出火し、二十七軒が類焼している」(有原家文書)。との記述が残るが、前述の火災の件であるのかは不明である。有原家とは妙福寺より西方山際に三丁程離れた位置にあり、多くの貴重な文書は現在千葉県文書館に寄託されている地区を代表する旧家である。又、同台方地区字弥勒の旧家である前嶋家の同館発行の「前嶋家文書目録」にも明治十六年(1883)東金を焼土と化した通称「明治の大火」の詳細な日誌があるが、この大火災の火元となった大門(だいもん)地区小料理屋しまや付近とは、妙福寺山門より僅か0・五丁程風下の場所。燃え上がる火の手から逃れられたのは妙福寺本堂裏手の上総丘陵崖側を烈風が西から東方へ沿うように吹き抜けたためと言われている。

妙福寺の日堅の法弟・堅祐の史料はないため不明であるが、
日堅とは東金の西福寺(現在・最福寺)の住職、第二十六世を務めた日堅上人の事である。『安國山西福寺歴代』、『日蓮宗辞典』(日蓮宗宗務院・発行)宮谷壇林 法流山 本国寺(大網白里市宮谷)の項よれば、万延元年(1860)庚申 十二月十九日化。本山「京都・妙満寺」百八十七世。僧都。心照院・亨吟と号し永田村(現大網白里市永田)光昌寺より入山、遷化は七十五歳。とある。
一世一代の大仕事である顕本法華宗 羽黒山 妙福寺本堂棟上げに際し真新しい棟札に揮毫した日堅上人は、文政十年(1827)時四十二歳。堅祐上人と本堂再建を考えたのは三十代後半と考えられる。本堂建設にあたって檀家信徒。京都本山妙満寺、上総十ケ寺、資金、棟梁、建築材料、鳥見頭,寺社奉行、形原松平氏知行地等々多くの事柄について膝を詰めて話し合い、その結果、宗祖日蓮大上人への更なる信仰のために動き始め、宮大工の棟梁名は不明であるが完成絵図を観ながら本堂の大きさや形等についての綿密な打ち合わせをしたであろう。

例えばその中で、本堂向拝の虹梁中央蟇股部分に彫られている作品「波に千鳥」であるが、潮騒を聞く遠浅の九十九里浜の直ぐ砕け散る白波とは異なり、大きくうねり迫る波間の中を片翼を細め、勢い良く飛び交う千鳥たちが、いきなり静寂を破るさえずりの声高らかに極楽浄土へと飛び出すごとく感じる作品を是非制作したい旨の話も当然あったであろう。
この作品は、本堂が完成後に発刊された葛飾北斎作、冨岳三十六景の一つ「神奈川沖浪裏」に構図と似ているところがあるので、向拝を見上げ暫く時を過ごすには適当である。もし、この作品が本堂を建立した棟梁自身の手によるならば、千鳥や波の動きを巧みに表現出来る彫刻の才能をも十分兼ね備えた宮大工であると言える。そして日堅上人、堅祐上人からの想いを叶える本堂建築の全権を任されたその棟梁とは何処の国(市町村)の、何と称した宮大工であったのか大変気になるところである。

そこで、この度の屋根修復工事で妙福寺の形がどの様に変貌するのか諸々情報を収拾すると、本堂の屋根は現在の銅板葺きの形でなく、以前大正時代に写真撮影されていた藁葺き屋根の形に戻し、文化財の意味もあるので従来使用されていた建築古材もそのまま生かす方法で行う。との事であった。
となれば、この本堂を建立した棟梁の名前は必ず棟札に残っているはずである。もしかして数十年以上探し求めている江戸時代後期から明治時代に掛けて主に東金や山武郡内外で活躍した彫刻の作品を多く残す宮大工棟梁大木茂八であろうか。或いは、全く名前の知らない地方の棟梁であるのか、手掛かりは歴史を閉じ込めた棟札だけであり、関心は日ごと深まるばかりであった。
棟札を確認するといっても天候によっては工事の進み具合は左右され、ましてや棟札を外すその瞬間に立ち会う事は檀家でない私にとって非常に困難な事である。どうしたものであろうか。季節は穏やかに移り替わり、徐々に進む解体工事について半ば諦めていた矢先、御仏の御加護であろうか日頃世話になっている妙福寺檀家の海老沢氏より突然「棟札を外したようです」との吉報を賜ったのである。 
曇り空しかも時刻は四時近い、急遽妙福寺に伺い事情をお話し奥様の御了解を頂き薄白色のビニ一ルシ一トに覆われた本堂内にて外された貴重な棟札二枚を拝見する事が出来た。

妙福寺本堂建立に際し、住職並びに多くの壇信徒の未来永劫を祈り、本堂中央上部に固定された棟札は本年まで約百九十年余を経た証しとして表面は香煙により黒茶色に変色していたが、下部に探し求めていた棟梁の名 東金の大工棟梁 大木茂八雅廣。脇棟梁として押田傳次廣胤の名前を確認する事が出来た。当然であるが向拝の波と千鳥を彫り上げた人物は棟梁である大木茂八本人の作品であったと言えよう。
木更津下郡出身である明治時代初期の彫塑家小倉惣次郎が若き日、東金に訪れ「東金の彫刻師某に就いて大いに得る所があった。」と言わしめた東金の彫刻師とは大木飛弾藤原綱行俗名茂八と称した宮大工棟梁大木茂八その人であった。
裏面には 文政十年(1827)丁亥七月五日入杣、同年十二月三日棟上、堅祐日癸とあり、
同棟札と共に収められていたもう一枚の棟札には大正11年(1922)藁葺き屋根を銅板葺きに改装した通称「芝山」と称した妙福寺から程近い上宿地区大門の棟梁 五木田政吉の墨書を確認する。
尚、この二枚の棟札は僅か数十分程であったが、修復工事担当の大工の方により元の位置に戻され、これから数百年後の妙福寺檀家信徒のために暗々裏に収められた。

そこで今回確認した大木茂八の人物像に関して、房州安房(あわ)鴨川打墨出身 初代武志伊八郎信由(以後、波の伊八)と大木茂八の作品が共に千葉県いすみ市和泉飯繩寺境内にあることから二人に触れながら話を進める事にする。

波の伊八と言えば波と龍の名品が多いが、いすみ市和泉の飯繩寺(いずなでら)本堂内正面にある「大天狗と牛若丸」「波と飛龍」の作品は特に有名である。その作品とは身を清め、砥ぎ澄まされた愛刀鑿先に全身全霊を捧げ、祈りを込め彫り進む波の伊八に対して神仏さえも味方したといわれた作品である。  
平家一門の大将である平清盛に、はからずも命を助けられた源頼朝の実弟九郎判官義経が幼名を牛若丸と称していた時、京都を鎮護する鞍馬山の奥深い山中で昼夜人知れず厳しい文武の修業に励む。そして約十年の時を終了した後、霊山鞍馬に棲む師匠である大天狗より見事本懐を、の意味を込めた免許皆伝の巻き物壱巻を牛若丸に与えたその瞬間を見事に表現した作品である。
それ故、波の伊八が彫り上げた本堂は見上げる人々を瞬時に異次元空間に誘い込み、真に荘厳なる神仙の聖域と化し、左右の欄間には息使い荒く忽然と波がしらの上部に出現する飛龍の姿更に怪しく凄まじい。

時を忘れ過ごした波の伊八の彫り上げた本堂を背にして一歩階段を降りると
同境内左側に本堂と対比して建つ鐘楼堂が目に入る。この鐘楼堂は千葉県東金市東金の宮大工棟梁 大木茂八の作品であり、正式な刻銘は「上総国 山邊郡 東金町住人 建方 彫方 大木飛弾 」である。
鐘楼堂はいすみ市教育委員会により平成7年5月26日、いすみ市文化財の指定を受け、「…寺伝では弘化三年(1846)の建立。様式は入母屋造、瓦葺で石造袴腰上に土台を据えて高欄付き回縁を設け、腰組は唐様三手先の詰組形式としてこの腰羽目には竜・虎の動物彫刻が施されている。軸部丸柱の冒頭には台輪を巡らし組物は詰組の二手先とし、羽目板には牡丹・菊等の彫刻が施され、丸柱頂部の真隅に唐獅子の彫刻を入れている。堂側の兎図左端に…銘がある。」と記述があり、立ち止まる参拝者の良い被写体となっている。
この飯繩寺本堂建立費用については、別史料であるいすみ市郷土資料館所蔵の『岬町史』によれば、波の伊八が関係した本堂は「金七十五両に而手間渡す。内金十五両本尊へ奉納す。凡三年斗掛る」との記述があり、又、大木茂八の鐘楼堂については「嘉永四年(1851)亥年九月二十九日 飯繩鐘楼堂造建、大工 東金茂八 手間四十両四十俵渡す、棟祭金五両米十俵遣わす。」とあった。

波の伊八は寛政八年(1796)気力、体力共に充実した四十五歳の年、飯繩寺本堂の彫刻を完成させるが、鐘楼堂を建立した大木茂八は翌年の寛政九年(1797)に産声を上げる。波の伊八と大木茂八とは年の差45歳。祖父と孫ほどの年齢差である。歳月が過ぎ、文政七年(1834)大木茂八が二十七歳の時、波の伊八が最晩年の仕事となる夷隅熊野神社の神輿制作を手掛けた後、七十三歳で他界する。
年齢から考えると波の伊八と大木茂八の師匠である二代目大木茂八、文化十三年(1816没)。三代目大木茂八、文政二年(1819没)とは、互いに出会いがあったのではと思えるが、東金や近郷近在に波の伊八の作品が観られない事は、直線でしか表現出来ない遠浅の波を欄間に生かそうとする土壌がこの地方にはなかったと考えられる。但し、それまでの様な花鳥風月の彫り物ではなく、岩礁に打ち寄せる生きた房総の荒波を狭い欄間内に見事に施す波の伊八という凄い彫刻師がいる。との噂話は職人仲間達の中では既に広まっていたと考えられる。

棟梁が不在のため大木家一門から四代目の名跡を継承する事になった若者にとって不幸な出来事とは一門を牽引していた二代目大木茂八を十九歳。三代目大木茂八を二十二歳で失った事である。この若者が十五歳で茂八の下に入門していたとしても二代目大木茂八とは四年。三代目大木茂八も七年という短期間の出会いだけである。徒弟として奉公を始めた若者にとって数年間は兄弟弟子たちの仕事振りを垣間見たり、大小建築材料の運搬等の補助作業に時間を費やし、厳しい徒弟制度の中では棟梁からの直接指導はなかったのではと思える。

この若者に関しては、大木家の菩提寺である東金市最福寺住職故日俊上人より、四代目大木茂八は俗にウシ太郎と呼ばれていたようです。との助言を頂いている。牛のように逞しく周りから好かれた才智ある若者であったためなのか、或いは学者などに付ける尊称である大人「たいじん」を「うし」と称す事から、入門したばかりであるが呑み込みが早く宮大工としての資質を満たす若者に棟梁茂八が隠語のように名を呼び現場でもあれこれと声を掛け、諸々の手伝いをさせていたのかもしれない。

しかし、若者が憧れた宮大工の棟梁二人が相次いで死去する。当然弟子や一門の中から次代の棟梁を継ぐ人物を。と願うが残念ながら皆が推挙する人材が見当たらず棟梁大木茂八不在のまま大木家はその生業を続け、仕事の話がある時は茂八と関係のある一門の大工の手を借り生計を立てていたと思える。
若者も一門の大工よりその都度技術の指導を受けるが宮大工としてはあらゆる面で未熟であり茂八の名を継承するには更なる修行が必要であった。そこで考えられたのが一門の縁戚である押田家より大工として実力経験共に豊富な人物を副棟梁格として迎え、その若者が棟梁の名に恥じない様に成るまで絶えず指導、監督、補佐をしてもらう方針を取ったのではと思える。

当然な事であろうが、この若者にとって茂八の二文字はあまりにも大きく技術力はもちろん精神的な重圧に将来への夢、希望や自信を失いかけたであろうが、その時、若者を盛り上げ助言、手助けをしたのが先代茂八の下で共に汗を流した常に身近にいた兄弟弟子達であり、仕手として度々訪れていた夷隅の大工達であった。
自分を気遣い期待する大工仲間や、己自身の更なる修業のために日々努力を惜しまず多くの現場に立ち経験を積む、そして逞しく成長した若者は魂の求めにより先代が修行したであろう房州夷隅の地へと向かったのである。

夷隅で歓迎を受けた若者は誘われるまま夷隅地区和泉の飯繩寺を案内され、本堂内欄間に彫られた眼光鋭く悠然と構え控える大天狗と牛若丸の作品を見て驚愕する。
安房鴨川出身の波の伊八という彫刻師の欄間彫刻に対する情熱と技術力に心底より感心、敬服すると共に自分の心の狭さ弱さを改めて恥じ仰視。源氏復活を願い僧正ガ谷で必死の修業を成しえた若き牛若丸(遮那王)を自分の姿に重ね合わせしながら、茂八として進むべき何かを掴んだに違いない。

若者は以後夷隅地方に訪れる際は波の伊八の欄間彫刻を食い入るように仰ぎ見、模倣ではなく自分の作品にどの様に生かすべきかあれこれと試行錯誤を重ね、その結果、今日観られる様な波の伊八とは異なる宮大工大木茂八としての独自の作品を作り上げたのではと想像する。その表れは鐘楼堂に彫られた龍、虎、獅子等の姿である。波の伊八の作品を動とすると茂八のそれは,御本尊に救いを求め信仰する多くの老若男女を優しく向かい入れる心の内面を表現した静の思想観に満ちた作品に思えてならないからである。そして飯繩寺境内全体を欄間に見立て手前山門から遠望すると本堂が大天狗。鐘楼堂を牛若丸としたならば、波の伊八を師と仰ぎその前に畏まり修業中の弟子即ち茂八の姿を映したように感じてならない。

尚。茂八が特に夷隅地方の大工との交流が多いことは東金市最福寺の肘木に墨書が残る同地区岩船の大工の名前や、同和泉の棟梁吉野喜兵衛の下で、仕事をした隣町大原地区小池の清水勧八。同良助。同定吉等の名前を挙げることが出来きることは、先代の茂八も含め夷隅地方との縁が深く、大工関係の親類縁者との交流も多々あったのではと思われる。
その一端として夷隅地区の千葉県無形民俗文化財に指定された有名な「上総十二社祭り」は、眼前の釣ヶ崎海岸を大神輿で渡御集結する壮大な祭礼であるが、この本宮として参加斎行する中原地区の鎮守 玉前宮の拝殿は、妙福寺本堂完成から7年後の天保五年(1834)十一月大工 東金茂八の手に成るもの。と記録を残している。
修復された十一月という月は玉崎神社の年行事である神迎祭の月。大木茂八は参加した弟子、門人と共に上座に坐し、拝殿で執り行われる神官の神事、巫女による神楽奉納舞や除災招福を願う福餅まきに参加。境内に参詣する氏子や地区の人々と共に、祝いのお神酒で酔いしれた事であろう。
いつの頃か不明であるが東金から和泉詣と称して多くの参拝者が飯繩寺を訪れている。「波の伊八伝」文中によれば防火.海上安全。商売繁盛。無病息災等の御利益を頂くための御祈祷寺である飯繩寺縁日には東金の方も多く、例えば家の子講中。同松之郷小井戸講中。同願成寺講中。同東講中。同西講中と講名を連ね染め上げた幟旗を先頭に各講の方々が訪れている。もしかして縁日が近くなると人々を誘い、茂八自身も参詣の方と共に御祈祷を受けていた事であろう。

宮大工三代目棟梁大木茂八他界から時が過ぎたが不在であった大木茂八の名跡を継承する事となった若者に対して大木家では若者の幼名を改めさせ四代目棟梁に相応しい格式のある名を授けたのではと思える。

妙福寺の棟札に墨書を残した棟梁大木茂八雅廣とは八年の歳月を経てりっぱに成長した若者すなわち四代目大木茂八であり、そして大木一門から棟梁としての技量や人格をも高める様に託され、絶えずその若者を補佐し続けた脇棟梁大工 押田傳次に対しても同様に廣胤という名を伝授したのではと思える.
二人の名前は雅廣と廣胤と称し二人共、廣の一字を使用している。特に廣胤の胤という文字には子孫が父祖を継ぐという意味を持つ事から昼夜雅廣の傍で生活し、絶えず仕事を補佐、監督し続けた押田傳次廣胤とは雅廣の実の父親であったのではと推定する。

押田姓は千葉県の北総地区や夷隅地区に多いが東金周辺では意外に少ない苗字である。実は先日妙福寺の梵鐘を調査した折、梵鐘を寄進された多くの檀家名が下段にぐるりと列記されていたが最上部篤志の覧左側に押田(女性名・ひらがな)の名前を発見した。
早速この押田姓の方の関係をお寺さんにお尋ねをすると檀家の方ではないようです。とのご返事であった。檀家の方でないなら押田姓の方が何故梵鐘制作の話に立ち会う事が出来、同意され高額の寄付をされたのか。そして打ち鳴らされた梵鐘の音をどのように聴き何を想い合掌されたのか今では不明のままである。もしかして東金の妙福寺建立にかって押田家が関係したという事を伝え聞いていた子孫の方が先祖ご供養のために御寄進されたのではとも考える事が出来る。

 大木茂八は初代より八代継承した千葉県東金市東金字岩崎に居を構えていた宮大工大木家の棟梁名である、宮大工という特殊な師弟関係等については八代目茂八の孫弟子にあたる方に取材を行いまとめたものであり、○代目茂八については同姓同名であるが故、解りやすく小生が付けたものである。特に四代目。夭折した五代目。再度復帰した四代目改め六代目。七代目と小倉惣次郎に関しては小生のレポ一ト「小倉惣次郎と東金の彫刻師についての一考察」に記述してあるので今回は省略することにした。

18.東金市田中 ほうじゅざんほうこうじ 宝珠山法光寺と閻魔王座像 JP1XWZ 河内 勝美 

法光寺縁あって法光寺さんへお伺いしました。 とても丁寧でやさしい住職と綺麗なお寺で、東金市の有形文化財も保存されています。

閻魔王座像えんまおうざぞう

閻魔王座像は、文明15年(1483年)前後の作と推定されております。長享2年(1488年)酒井定隆の改宗令の際に、破壊されるのをおそれて土中に埋めたものを、寛文年間(1661年〜1672年)に土地の人が掘り出して、法光寺に納めたと伝えられています。坐高66cmの杉材製、寄木造りで右手はなく、もとは彩色されていたようですが現在は剥落して素地を現しています。冥府の王を表しながらも表情にも体勢にも厳しさがなく簡素で穏やかさの認められる像です。昭和56年(1981年)5月15日に東金市の有形文化財に指定されました。

おすすめポイント:山辺赤人坐像(やまべのあかひとざぞう)


  • 山辺赤人座像は、像高18.1cmで檜の一本木丸彫で彩色されています。像は全体にゆったりとしたふくらみをみせています。笑みを含み、今にも一首うたいだしそうな風貌です。作者は不明であるが、おそらくこの地に赤人伝説が起こった文化年間(1804年〜1817年)頃の作とされています。この像は秘蔵とされ普段は公開されていません。昭和56年(1981年)5月15日に東金市の有形文化財に指定されました。
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